慈雲寺の沿革
大峰山慈雲寺は、弘安2年(1279年)北条時宗の招請により来朝した宋の僧、
無学祖元和尚(後に後宇多天皇より仏光禅師号を賜り、
鎌倉建長寺二世、円覚寺開山でもある)を開山に迎え、当時この地を治めていた北条時宗により創建されたお寺です。
開山当初の慈雲寺は、現在の峰台小学校の地を中心に、
七堂伽藍の整った大寺で、二十数万坪の敷地があったとされております。
しかし永禄7年(1564年)、里見氏と北条氏の戦いで、里見方の兵火に焼失し、荒廃に帰してしまいました。
その後北条氏政が当寺を再興し、寺は曹洞宗に属し、能山梵芸和尚が迎えられて、改めて開山第一世になっております。
それ以前は臨済宗でありました。
やがて北条から徳川の時代になると、寺は段々と小さくなり、
更に明治維新の官軍と幕軍の戦火にあい、慈雲寺は潰滅状態となりました。
その時この地で亡くなった徳川家臣の墓石が、今でも慈雲寺にあります。
明治から大正、昭和にかけての慈雲寺は、現在本堂のある地に、萱ぶきの小さなお堂が一つ、
少し離れた所に秋葉堂という極めて小さなお堂が一つあり、裏山は鬱蒼とした大木の茂る小山となっておりました。
そして復興が始まったのは、現住職の祖父が着任した終戦後のことになります。
まず旧本堂の増改築、庫裡を新築し、昭和50年には新本堂を建立、客殿の新設と続き、
その後は先代住職が本堂の増改築、平成に入り境内地の整備等を行い、現在に至っております。
慈雲寺住職 野口 宗康 合掌